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総集編(笑)なう

(※)長いので、追記にしてあります
 †

 そこはまさしく鉄火場で、生と死が入り混じり合った戦場だった。
 火薬の焼ける臭いもしたし、人の肉が焼ける嫌な匂いも勿論した。
 獣のように高々と吠える声に、耳を塞ぎたくなるくらいの断末魔。
 所々で火の手が上がっているからか漂ってくる空気も妙に熱い。
 魔導師も実戦投入されているのか、魔力光が色んな所で瞬いている。
 花火の如くきらびやかに輝くそれはまるで、命が燃えゆく様子を思わせた。
 殺された者はそこに身体を投げ出し、まだ生きている者は威嚇するように大声を上げながら切り結んでいく。
 命を奪い奪われるその光景は人の心を麻痺させ、狂気の領域へ引きずり込むには十分過ぎるのであった。
 人々は何かしらの狂気に取り憑かれ、それに任せて踊り狂い、己に襲いかかる存在に牙を剥く。
 既に血や泥に塗れた時点で人の精神は破綻しかけ、むせ返るくらい濃厚な死の匂いが充満していた。
 そんな目を背けたくなるような場所を、遠くにある丘から眺める者がいた。
 それは膝裏まである長いロングコートを風にはためかせ、口の端にキセルを銜えた青年だった。
 何故か頭には狸の立体的なお面を頭につけ、青みがかった彼の片目には魔法陣が浮かび上がっている。
「うわぁ……すっげぇ血なまぐせぇ」
 彼はそう呟くと口にあった物を離し、どこか呆れるような声を漏らして渋い顔をする。
 黒いコートの懐に右手を突っ込み、そこから鎖の付いたものを引っ張り出す。
 それは表面に傷がたくさんついた懐中時計だった。端についたスイッチを押し、蓋を開いて円盤が示すものを一瞥した彼はぼやくように呟いた。
「もうおっぱじめてやがる」
 そう言いながらも口元に楽しそうな笑みを浮かべ、まるで今から悪戯を始めようとする悪餓鬼のような雰囲気が漂っていた。
 左手で弄んでいる管の長いそれからは赤い煙が上がっていた。
 火皿から上がるその色はまるであの戦場で流された血を彷彿とさせた。
 どうやら何かしらの方法で己の視力を強化し、丘の向こうで開始された戦場の様子を見ているらしい。
 そんな彼の気分に水を差すように、
「別に良いわ。例え人が何人死のうと……私には関係ない事だから」
 と、どこか気だるそうに言ったのは左目に革の眼帯をした金髪碧眼の少女だった。
 年齢は十代後半いったところだろうか。それなりに膨らみのある胸がその身に纏っている男性用のカソックを押し上げている。
 セミロングの髪型からは活発そうな感じがするが、その目はどこか気だるそうな印象があった。
 本当にどうでも良いのか、戦闘が起きている地上ではなく空の方を眺めている。
「ヴィヴィ、そんな事を言っちゃ駄目ですよ」
「……クレア」
 そう言って眼帯の彼女を笑顔でたしなめたのは青年の近くで戦況を見守っていた金髪の少女だった。
 外見は眼帯を付けている彼女より少し上くらいで、髪を青いリボンで一つにまとめている。腰の辺りまである長いその髪はまるで金で作られた糸のように美しい。
 女性用である為にどこか意匠が違う感じはするが、彼女が着ているのも確かにヴィヴィと同じ露出度の少ない修道服。
 クレアの浮かべている表情はどこか温かみがあり、まるで太陽のような感じがした。
 彼女の目は可愛い妹を見る姉のそれであったが、その仕草はどこか我が子を叱る母親のようでもあった。
 声音は柔らかいものだったが、怒られたのが癪だったのだろう。そっぽを向くヴィヴィ。
 今から三人が行おうとしていることを考えれば、それは暢気にも程があるやり取りであった。
 実際に彼もそう思っているのか、二人の少女を見ながらクククと笑っている。
「てめぇら、姉妹で喧嘩してんじゃねぇよ」
 茶化すようなその一言によって怒りの矛先を変えた二人は、むっとした顔で彼をじっとにらむ。
 美少女である二人に睨まれても可愛らしいと思っても、恐怖を感じたりはしないのだろう。
 陽気に笑いながら青年はキセルを銜え直し、ヴィヴィとクレアに指示を出す。
「二人は仲良く左側をやれ。俺はこの子連れて、右側制圧してくっから」
 そう言って彼はむこうで行われている殺し合いに、顔を強張らせている茶髪の女性の方を見る。
 青を基調とした女性用スーツの上に小麦色のコートを羽織り、髪はクレアほどではないが長さは肩甲骨まで届くほどであった。
 青年は吸い口を歯で挟みながら悪戯っぽく笑い、魔法陣が浮かんでいた片目を閉じて女性に訊ねた。
「鉄火場に突っ込む覚悟は固まったか? 麗しのお嬢様(フロイライン)?」
 既にクレアとヴィヴィは己の持つデバイスを展開し、その手に得物を手にしていた。
 剣を携えたクレアは女性に向けられた問いに対して柔らかく笑い、
 ヴィヴィは、肯定するが如く両拳につけた手甲を打ち合わせる。
 己の知らない所で進んでいく状況。
 まるで遊びに行くが如く楽しそうな三人。
 ただ一人、武装していない茶髪の女性――八神はやては思った。
 何故、自分はこんな所でこんなことに巻き込まれているのだろうか……と。

 †

 ジェイル・スカリエッティは何の脈絡もなく言った。
「君は次元海豚を知っているかね? 八神はやて」
 それは彼女が改良された『夜天の書』を取りに来た時の事だ。
 魔力反応紙に魔法を記憶させる為の加工をしながら彼はそんな質問を投げかけてきたのである。
 彼にしては珍しく自身で提示した予定時刻を超えたから、興味を持ちそうな話題でそれを誤魔化す気なのだろうか。
 そんな事を考えつつ、はやては彼の秘書であるウーノが淹れた紅茶を口に含む。
 音を立てないようにゆっくりとカップを左手のソーサーに下ろした彼女は少し突き放すような口調で答えた。
「知らん。フェイトちゃんなら知ってんと違う?」
 次元鯨という生物については彼女もよく知っている。
 しかし次元海豚と呼ばれる生き物の存在は初耳であった。
 その鯨は【竜王】などの稀少価値の高い資質を持っていなければ使役出来ないとまで言われている誇り高い次元海洋生物だ。
 大きさは既存の大型次元航行艦など、その鯨と比べればありか豆粒に見えてしまうくらいだ。
 次元航行部隊は己の職場を「うみ」と称し、次元鯨なる生き物も実際にいるのだ。よくよく考えてみれば次元海豚というのがいるのも当たり前だろう。
「それはそうだろう。私でも、あの海豚を実際に見たのはたった一回だけで、それもほんの一瞬なのだからな」
 知らないと返した彼女に対し、すごく満足そうな笑みを浮かべるスカリエッティ。
 優越感に浸っているような顔をする相手に、はやては軽く怒りを覚えた。
 わざわざ時間を空け、彼の依頼もきちんと果たしてきたのに、そんな仕打ちを受けるとは思いもしなかったからである。
 しかし彼女は胸にあるその苛立ちを抑え込む。ここで怒れば、相手を喜ばせるだ。
 それでも薄気味悪い笑みを浮かべている彼の顔に魔法が叩き込めるようにしつつ問いをぶつけた。
「その海豚と、持ってきた本にどんな関係があるんや?」
「まぁ、落ち着いて聞きたまえ」
 流石に魔法を研究室の中で使われるのは仕事の都合上で困るのだろう。いつもは自己中心的な部分が目立つ彼にしては珍しく相手を押さえるような身振り手振りをする。
 今回の改良を彼にただでやって貰う事と引き換えに、はやてはとある依頼を受けていた。
 それは彼の紛失した研究資料を取り戻す事である。
 知識や技術力に関しては次元犯罪者にもかかわらず彼を雇った開発部でもトップクラスなのは言うまでもない。しかし彼には研究と関係ない事に対しては無頓着というか朴念仁な所があった。
 現にスカリエッティの心を射止めたウーノも、恋心に気付いて貰えるまではよくやきもきしていたという話だ。
 研究に関しても結果が出れば興味がなくなるのか、時には研究内容を横取りされたり研究資料を盗まれたりしている。
 別にスカリエッティ専属の秘書であるウーノの管理能力がずさんという訳ではない。
 他人からしてみれば重要すぎる資料などを、彼が適当な所に置いたままにしている事が多いからである。
 微妙に片付け出来ない所が子供っぽくて可愛いとウーノは苦笑いしつつも惚気ていた事をふと思い出すはやて。
 仲が良いのは良いが、迷惑をかけるのは勘弁して欲しいと彼女は小さくため息をつく。
 はやてが個人的に親交のある無限書庫の非常勤司書であるヴィヴィオがそれら関連の事件に巻き込まれるのは多いが、被害をこうむるのは彼女だけではない。
 時には情報が流失して彼が設計したデバイスの図案が密売の手に渡り、知らないうちにそれを犯罪に使われた事もあった。
 そんな事がたびたびある為、盗難にあった彼の研究資料を探す時は色んな部隊が狩り出されるのが日常茶飯事の事になっている始末。
 陸士部隊や捜査課、果てには管理局内でも悪名高い諜報部隊までもが彼の資料やその研究結果の流失には頭を悩ませていた。
 今回は『時空航行流離理論』という、名前からして次元犯罪の火種になりそうなものが産業スパイか彼を妬んだ研究者に盗難されていた。
 資料の回収にはエリオとヴィヴィオにも協力して貰ったが、後で命と貞操の危機だったと文句を言われたのである。
「次元海豚とその意味の通り、次元の海に住む……いや、次元の海でしか存在する事の出来ない海豚の事だ」
 そう言ってスカリエッティは専属の秘書であるウーノが整理したファイルを本棚から抜き、そこに視線を落とす。
 空間にディスプレイとキーボードを展開し、資料を眺めながら片手でキーを叩く。
「君は知らないと思うが、次元航行艦の元は偶然にも迷い込んだ次元海豚の死骸などで作られていたとも言われるそうだ」
 スカリエッティにプログラムが入力されるのと連動して机にあった魔力反応紙が宙に浮かび、何も書かれていない所に魔力が帯びていく。
 はやては彼の製作工程をぼんやりと眺めつつ、彼が何を言いたいのか考え始める。
 昔の次元航行艦の材料。その単語から考えられる能力は一つしかなかった。
 これはあくまで予測でしかないが、導き出された次元海豚の能力がそれならば、スカリエッティすら一瞬しか見た事がないというのも納得できる。
「……次元航行。もしくは、次元跳躍能力を持った生物が、あんたの言う次元海豚という事か?」
 ウーノにページをめくって貰っていた書類から顔を上げるスカリエッティ。
「ご明察だ。次元航行艦がある今でも、次元海豚の生態は分かっていないし、研究は進められている」
 彼にしては珍しく満面の笑みを浮かべてその予想を肯定。そして紙にまとめた資料をウーノにめくって貰いつつ、キーボードを操作し始めた。
 自動書記式の魔導書が作られる工程とはこんなものなのかと思いつつ、はやてはすっかりぬるくなった紅茶を啜りながら物思いにふける。
 タイプされる音に合わせて宙に浮かんだ魔力反応紙に文字が刻まれてはすっと消えていく様はまるで魔法使いの存在を知らぬ子供の思い描く魔法に相応しい物であった。
 スカリエッティやウーノが使っているキーボードがピアノの鍵盤みたいなタイプであるだけに、姿だけを見れば彼の奏でる音で紙が踊っているようにも見えた。
 それで彼女が思い出したのが、幼少の頃に見たちょっとした映画の事だ。
 老いた魔法使いに水汲みの雑用を任された若い見習いが調子に乗って失敗し、己の無力さを嫌というほど知らされる。
 何も知らない頃は何気ない気持ちで見ていられたが、今思い返すと身をつまされるような思いをはやては感じずにはいられなかった。
 雑用を任せられた弟子に、はやては己自身や作業をしているスカリエッティを投影してしまうのである。
 『世界』に勝負を挑むかのような事を目標とし、血と泥にまみれながらも道化を興じる。
 何にも心を奪われず、痛めず、誰とも心を通わせなどしない。
 絶望と隣り合わせであろうとも苦しむ事も悩む事もなく強くあるように見せる。
 あらゆる絶望を貪り、悲しみを飲み干し、己を慕ってくれる部下たちと愛しき戦友たちの命を背負い、この残酷で醜くも美しい世界へと勝負を挑む。
 そして『世界』に裏切られ、悪意という名の濁流に飲み込まれ、下手すれば命を落とすかもしれない。
 遥か遠き美しい青の空に憧れ、蝋で作った翼と共にその身を太陽に焼かれて死んだイカロスのように。
 はたまた、魔法を止める呪文を知らないのに調子に乗って魔法を使い、自分には力がないという現実を見せつけられて絶望した魔法使いの弟子のように。
 現に、はやての目の前には生命操作技術の完成、その為の空間作りという夢を叶える為に『世界』に喧嘩を売って敗北したジェイル・スカリエッティがいる。
 だからこそ、魔法使いの弟子だけでなくスカリエッティにさえも己を投影し、自分はこのまま進んで大丈夫なのか考えてしまうのである。
「……お代わりをどうぞ。はやてさん」
 そう言って紅茶を注いだカップをはやての前に置くウーノ。
 彼と共に作業をしていた彼女がいつの間にかお茶を淹れて事にはやては内心、驚かずにはいられなかった。
 周囲に気を配ることを忘れるくらい物思いにふけっていた己を恥ずかしく思いながら彼女は入れて貰ったお茶を飲む。
 紅茶にしては清涼感のある味に少し驚きを感じたが、どこか心が落ち着く温かい味だった。
「ハーブティーです。最近、興味を持つようになったので」
 少し驚いているはやての顔を見て、ウーノは柔らかい微笑みを浮かべる。
 その表情はまるで可愛い我が子を持つ母親のようなものを感じさせた。
 いや、それは当然だろう。ウーノもあと数ヶ月経てば、本当の母親になるのだから。
 まだお腹の方は目立っていないが、身体の中には既に新たなる命が宿っているらしい。つわりが始まる前に挙式予定らしいが、やる事はやっていた事ということだ。
 シャマルの話によると、ハーブティーは働きが穏やかでカフェインを含まないことから妊産婦にも向いているらしい。
 彼女いわく、時には医務局で出産関係も扱う場合があるらしい。
 妊娠中は何かとブルーになったりすることもあるので、リラックス効果の高いハーブを上手に活用すると良い。
 しかし通経作用などがあるものもあり、妊娠中は避けた方が良い物。成分の強い為に長期間に渡って飲まない方がいい物もあるという話だ。
 ハーブによっては、妊娠初期は飲んではいけないけれど、後期には大丈夫だったり、出産を助ける効果があるのもある。
 まぁ、ウーノの事だから効用を知っててハーブティーを作っているだろうと考えてはやてはそれを口に含んだ。
「成功例とは言えない代物だが、次元海豚の細胞を人間に移植する人体実験によって、次元海豚の能力を得たというレポートも私は知っている」
 はやてが呆けている間もスカリエッティは一人延々と語っていたのだろう。いつの間にか次元海豚の話から、それを使った実験へと話が移っていた。
 カップをソーサーにそっと下ろした彼女はどこか邪なものを感じる笑みを浮かべて反応を返す。
「あんたが間接的に失敗と言うんや。続きがあるんやろ?」
「ああ。その能力を得た検体は……実験途中で行方不明になった。すぐに発見されたが、そこは驚くべき場所だった」
 いつもは道化ぶっている彼にしては珍しい真剣な表情に、もしかして何かあるのではないかと彼女の顔も引き締まる。
 妻であるウーノにとってもそんな夫の顔を見るのは初めてなのだろう。作業の手を止め、はやての後ろで付き従うように立った彼女はスカリエッティをじっと見つめている。
「そこは?」
「……過去だ。十年も前に残された資料に載っていた」
 そう言った彼の口ぶりはどこか明日の天気を答えるような軽さがあった。しかしその内容は目の前にいるはやてを絶句させるには十分過ぎるものだった。
 検体が実験中に過去へ飛んだという事実。それは偶然の産物とはいえ、時間を移動する技術が見つかったということを意味していた。
 人が神の領域に一歩足を踏み入れた事と同時に、それは自らの望む未来へ過去を改変する手段が見つかってしまったという事。
 そう、己の望まぬ過去の出来事も歴史上ではそんな事は「なかった」事に出来るというおぞましき力の存在を人が認識してしまったという事である。
 身体をぴくりと動かしつつも彼女は無言で彼を見つめる。その目は相手の口から出たのが出任せか真実か探っていた。
「次元移動どころか、時間跳躍までしたと言うんか?」
 威圧感を与えるように睨んでくる彼女に、彼は怯えるような様子は見せなかった。
 むしろ彼は世間話をするかのような気楽さな口調で話を進める。
「馬鹿馬鹿しいと思うが、そのとおりだ」
 スカリエッティ自身も馬鹿らしいと思っているのだろう。
 その場で立ちあがって片手にファイルを持ちながら腕を広げる。
 そして、どこか芝居ががった大げさな身振りで首を振った。
「その研究で分かった事はただ一つ。次元海豚の生態が未だに不明といわれるのはその特性ゆえ」
「そして次元海豚の能力を得た存在は……」
 はやての言葉を引き継ぐようにスカリエッティは言った。
「シュレディンガースタンディング現象に囚われ、どこにでも存在するけど存在しないという超常現象の塊と化す」
 椅子に座りなおした彼は机にばらまかれた書類の一つを手に取り、それに目を通しながら説明を続ける。
 その顔には新しい玩具を発見したと言わんがばかり表情が浮かんでいた。
「SS現象と呼称させて貰うが、この現象を知る科学者の中にはこういう見解もある」
 顔を上げてはやてを見るスカリエッティの顔に浮かんでいたのは、まるで新しい玩具を見つけた子供のような笑顔だった。
 しかしその瞳の奥には、目を合わせたはやてすら身の毛もよだつような邪悪な狂気が宿っていた。
「SS現象により、過去にもその存在が確定したオーバーテクノロジーこそが……ロストロギアではないかと」
 顔をひきつらせている彼女を見て、己が相当な顔をしている事に気付いたのだろう。居住まいを正してから顔に浮かべていたそれを消したスカリエッティは彼女に言った。
「中には、製作者が分かっているものもあるがそれはごく少数。大体は製作者不明。才媛の君なら分かるだろう?」
 それでも明らかに興奮が隠し切れていない相手に対し、自然に身が後ろに引いてしまうはやて。
 だがそれを殺して目をより細め、淡々とした口調でレスポンスを返す。
「古代遺失物と呼ばれるものの正体は、私らのいる今より遥か先の未来で作られたものという事か?」
「あぁ、君の言った通りだよ。クロノドライバーの因子を持つ存在か、それで過去に送られた存在がなりやすい」
 彼女の蔑むような冷かな目つきで湧き上がった気持ちも落ち着いたのだろう。
 スカリエッティは笑みを残しつつも、事実だけを並び立てるように事務的な口調でそう答えた。
「君の扱っている古代ベルカの言語で言えば、ツァイト・ヴェレナー因子と言ったところか」
「時空跳躍因子……という事かいな」
 緊迫していた空気が僅かに緩み、はやてが深く息を吐き出した時を見計らったかのように彼は新しい質問をした。
「そこで君に質問だ」
 彼はそう言って柔らかく笑った。
 その表情に、彼女は背筋をぞっと震わすほどの異様な嫌悪感を覚えた。
 何故ならその瞳の奥につい先ほど垣間見た邪悪な狂気がドロドロにへばりついた泥のように宿っていたからだ。
 はやては思わずその場でえずきそうになった。
 彼女の状態など気にも留めずに、彼は笑みを貼り付けて相手の願いの象徴であり弱みの部分に切り込んだ。
「過去をやり直し、未来を変えたい……君はそれを願った事はないかな? 《夜天の王》八神はやて」
「……」
 その響きはまるで甘い罠で誘惑して魂の取引をしようとする狡猾な悪魔の囁きのようでもあった。
 目の前の愚者をそそのかし、引きずり込んで破滅させた後にその魂を蹂躙するが如く貪ろうとする悪魔。
 そんなものを彷彿とさせる顔を彼は見せていた。
 はやてはそれに対し、嫌悪というより嫌悪に近い感情を湧き上がらせる。
 まるで自身の醜いと思う部分を抽出して見せつけられているような感覚を覚えたからだ。
「さぁ、な……あんたには関係ない事や」
「そうか」
 その回答次第で何かをするつもりだったのだろうか。
 はたまた、彼女の決定的な弱みと言える部分をこの場で引きずり出してしまおうと考えていたのだろうか。
 その返答に対し、彼はどこか興醒めしたような顔をした。
 座っている椅子の位置を回し、机に向かうとつまらないと言うかのような口調で彼女に言った。
「まぁ、君が会わない事をささやかながら祈ろう」
 声からして妙に機嫌が悪いスカリエッティの口振りに、はやては不思議に思いながらも質問する。
「もし会ったら?」
「良き選択をする事だ」
 背中を向けているせいで彼がそんな表情をしているかは、分からない。
 だがアドバイスするかのようなその言い方はまるでスカリエッティが実際に時空跳躍した経験があると言っているかのようであった。
 何か怪しいと思った彼女は鎌を掛けた。
「逆に聞くけど、あんたは変えたい過去はあらへんのか? ジェイル・スカリエッティ」
 その問いはすぐに返ってきた。
「ないわけではないが、後悔はしていない」
「……なるほどなぁ」
 彼が逮捕される原因となった事件からも分かるように、ジェイル・スカリエッティは己の欲望のならばいくらでも世界に喧嘩を売るような人間だ。
 だから逆に変えたい過去などいくらでもあるとはやては考えて鎌をかけるような質問をしたのだ。しかし、まさかその予想が外れるとは思ってもみなかった。
「それと、これにサインしたまえ」
 そう言ってスカリエッティがはやてに向かって飛ばしてきたのは一枚の紙だった。
 ミッドチルダで使われている文字とも違い、ベルカの文字とも違う。
 はやても見た事のない文字がそこにびっしりと書かれていた。
 インクらしきそれはどす黒く、まるで凝固した血を彷彿とさせた。
 多少不思議に思いながらも、彼女は末尾の部分に己の名前を書き込んだ。
 名前の書かれた紙はスカリエッティの手元に戻り、彼の持っていた革地の背表紙へと吸い込まれる。それと共に置かれていた魔力反応紙も宙に浮かび、背表紙に向かって勢いよく押し寄せる。
 最後の一枚が挟み込まれていた時、スカリエッティが手に持っているそれは「本」としての形を成していた。
 最終確認としてページをぱらぱらとめくって閉じた彼は、その本を彼女の方へと勢い良く投げる。
 それをキャッチしたはやてはその本を何気なくめくる。中身は何も書かれておらず、魔力反応紙をたくさん集めて綴じただけの本だった。
 真っ白な本にギョッとするはやて。『書』の中にあった情報が全て抹消されたんじゃないかと思ったからだ。
 掴みかかろうとする彼女に向かって、スカリエッティはクククと意地汚い笑みを浮かべる。
「今の技術では情報圧縮してもこれ以上は容量が大きくならないのでね、サブを作らせてもらった」
 使うと良いと、悪戯っぽく笑うスカリエッティ。
 その言葉に、毒を抜かれたはやてはまるで狐か狸に化かされたかのような顔をする。
 彼が軽く手を挙げると、ウーノがはやてに向かって分厚い本を差し出す。
 表紙に金属で出来たベルカ十字が埋め込まれているそれはまさしく、はやての愛用している『夜天の書』であった。
 力が抜けた彼女に向かって、
「気をつけて帰りたまえ」
 と、ニヤニヤと笑って彼女を帰すスカリエッティ。
 何だか負けたような気がするなぁ、と思いつつはやては彼専用にあてがわれた研究室を後にした。
「契約は終えた……か」
 はやてが去った後、スカリエッティは静かになった研究室で一人ごちる。
 ウーノは疲労回復効果のあるハーブティーを淹れに行っている。
 だから、部屋には彼一人しかいない。
「後は運命次第といったところだな」
 そう言って彼は背もたれによしかかり、だらしない姿勢で椅子に身体を沈める。
 引き出しから管の長いキセルを口に銜え、ぼんやりと天井を見上げる。
 火をつけていないはずなのに、火皿からは白い煙が上がっていた。
「さて、君はどこに流れ着く? 何を願う? 何を変える?」
 口元に楽しそうな笑みを浮かべて、彼は問いかけるような口調でそんな独り言をつぶやく。
「私には、それが楽しみでならないよ」
 その顔はまるで壮大な悪戯の計画を考える子供のように、純粋でありながらも悪意に満ちた笑みであった。

 †

「ただいまぁ~」
 明らかに疲れた様子で捜査指令室に入るはやて。
「おかえりなさいです。はやてちゃんっ!」
 やつれた主をリインフォースツヴァイは笑顔で元気良く出迎える。
 ずっと書類作業をしていたのだろう。ついているのはスタンドの電気だけで、指令室は真っ暗であった。
 両脇に『夜天の書』と無名の書を抱えつつ、彼女はよろよろと自身の席へと歩いていく。
 重さがそれなりにあったのだろう。机の上に抱えていた本を少し乱暴に置いたはやては軽く息をついた。
 そして倒れ込むように、己の椅子に身体を沈めるはやて。
 椅子を回し、窓の方へと身体を向ける。そこにはきらびやかな夜景が広がっていた。
 部屋の天井と外の夜空を見上げながら、ふと物思いにふける。
 煙にまかれたが、あの質問は明らかに何かしらの意図があってしたものに間違いない。
 あれは良くも悪くも天才だ。冗談を口にしても、意味のない質問をするとは思えない。
 それ以前に、あの内容は明らかに重要機密クラス。そう易々と口に出せるものではないはずだ。
 過去を操作して未来を変える。それが可能となれば、存在する戦略兵器などあってもないようなものとなる。
 歴史改変のリスクは未知数であるが、その行動にメリットがないわけじゃない。
 そもそも、はやてもスカリエッティもそれなりの立場にいる人間だ。
 あの場で出来る回答は、あれしかなかった。
 易々と頷けば、スカリエッティの良いようにされるのは避けられない。
 椅子によしかかりながら、彼女は机の引き出しからあるものを取り出す。
 鎖が通された金のベルカ十字架。それは『夜天の書』の原典につけられていた装飾。
 それは、あの『書』が確かに存在し、「彼女」がほんの一時であるがはやてと共にあった証であった。
 鎖にぶら下げられたそれを眺めながらはやては小さく呟いた。
「過去をやり直し、未来を変える……か」
 実はあの時、はやてはスカリエッティにされた問いにどきりとしてしまったのだ。
 何故ならば彼女の頭の中をとある人物の影がよぎったからだ。
 それは勿論、あの冬の日に空の彼方へと消えた「彼女」の事に他ならない。
 『祝福の風』リインフォース。今はツヴァイがいるから、アインスと呼称すべきだろうか。
 時折、はやては考えてしまうのだ。
 『夜天の書』の管理人格であるアインスに幸せはあったのだろうか。
 もしかしたら、アインスも救える術はあったのではないだろうかと。
 だからこそ、スカリエッティのあの問いは目を逸らす事の出来ない甘い毒だった。
 あの『過去』を改変し、彼女の笑顔を見るハッピーエンドを取り返せるならば――
「は、は、はっ……はやてちゃんっ!」
「……それは、夢や」
 歯を食いしばりながら、はやては頭の中で渦巻く誘惑を振り切るように呟く。
 明らかにさっきの事を引きずって、想いに振り回されてるのは彼女自身分かっていた。
 過ぎ去ってしまったからこそ、過去なのだ。取り返す事など、出来るはずもない。
 彼女も笑顔のハッピーエンドなど、もはや幻想だ。
「リイン。帰るで~」
「は……はやて、ちゃん?」
 早く帰って、さっさと寝よう。気分を引きずってたら間違いなく、明日の仕事の支障になる。
 何故か慌てているリインに声をかけたはやてが振り返る。
 そして、部屋の中にいた「それ」に彼女も思わず目を剥いた。
 磨き抜かれた紅玉を思わせる澄んだ目ではやてをじっと見ていたのはなんとも形容しがたい生物だった。
 紡錘型のシャープな顔つきに、滑らかそうな皮膚。
 ヒレはまるで翼を広げたような大きく、胴体は蛇のように長い。
 三角形の背びれや尾びれから、はやてはもしかするとこれがスカリエッティの言っていた「次元海豚」ではないかとふと考える。
 しかしその考えが頭をよぎったのはくまで、ほんの一瞬。
 目の前でとぐろを巻くようにして宙に浮いているそれは海豚というより、龍と呼んだ方がしっくりと来る外見であった。
 覗き込むように見つめてくるつぶらな瞳の中に優しさや人懐っこさを感じるが、それ以外は見る者を威圧するものだ。
 とにかく、これが何でここに出現したか――それを考えなければならない。
 はやてが椅子から立ち上がった時、机に置かれた一冊の本から光が発せられて独りでに開く。
 それはスカリエッティが『夜天の書』のサブとして作った無銘のストレージデバイスだった。
 閉め切っているはずなのにその本を中心にして室内で突風が発生する。
 同時に綴じられていたはずのページが次々と外れていき、風に捲き上げられたかと思うとそのまま空中に浮いた。
 はやてと謎の生命体を隔てるように展開され、紙に再び文字が浮かび上がる。
 その生物の鳴き声だろうか。空気を振動させるような音が発せられた。
〈汝が……あたいを呼んだのかい?〉
 つい先ほど発せられたのは言葉ではなかったはずだ。
 なのに、頭では目の前にいるそれが何を言っているのか、はやてには分かった。
 この動物は精神感応能力があるのだろうか。はたまた、スカリエッティがデバイスに変換機能を搭載させたのだろうか。
 はやてが冷静に状況判断をしようとしていると、その生き物は楽しそうに鳴いた。
〈ああ、これは懐かしいっすなぁ〉
 言語変換の不備なのだろうか。ニュアンスは分かるものの、口調がどこか定まっていない。
 感嘆するような口振りで、それは言葉を続けた。
〈古代ベルカの『鉄血と真夜の盟約状』を持ち出されるなんて久しぶりだ〉
 その生き物が視線を向ける先にあったのは、はやてがスカリエッティの研究室でサインをしたページ。
 飛び出した言葉に、はやては再びぎょっとする。
 鉄血と真夜の盟約状。その単語は、彼女も聞き覚えがあるものだった。
 それはその名の通り、血と夜に賭けて制約を守らせるマジックアイテム。
 ただし、今では管理局と聖王教会が重要文化財に指定している代物である。
 命の源であり、肉体的な『個』の存在を構成させる最大要素である血。
 そして、今現在では様々な言語や流派の存在する魔術の原初にあたる混沌の象徴である夜。
 この二つに賭けて、約束や契約を厳守する。
 ある意味で、それは魔法を扱う者としての誇りを賭ける事でもあった。
 その契約を形にして遺されたのが、この『鉄血と真夜の盟約状』なのである。
 強制力が余りにも強く、膨大な魔力を使って修正は出来ても破棄は不可。
 作り方も秘匿されている上に、作れる者が少ない。
 その二つの点の為に、重要文化財であると同時に古代遺失物クラスの危険物となっている。
 何故、そんなものがここにあるのだろうか。考えるはやてに、その生き物は問いかけた。
〈悲しみのない世界を作る。これが貴方様の祈りなのかな? かな?〉
「!?」
 発せられた質問に、はやては動揺する。
 どこかふざけるような口振りで、その生き物が口にした言葉。
 それは、彼女があの日から心の奥底に持っている願い。
 雪の日に、泥にまみれて泣きながら立てた誓いであった。
 何故、目の前にいるこの龍なのか海洋生物なのかよく分からない生物が知っているのだろうか。
 心を揺さぶられている彼女を見ながら、それは言った。
〈――悲しみのない世界を作る。それを幻想ではなく、真実にするなら……必死にならなければ損ではないか〉
「―――」
 その言葉に思わず、はやては感動せずにはいられなかった。
 何故なのか彼女自身も分からない。しかしその言葉には胸を熱くさせる何かがあった。
〈そして悲劇を迎えないとしたら考え抜いて、その悲劇を覆して、その先に進まないといけないよね?〉
 続けられる言葉に対し、はやては口を開く。
「それは――」
〈うん。貴殿の願いを叶える為には、お前が英雄にならねばならないんや〉
 はやての心を読んだかのように、その生き物は彼女の言葉を引き継ぐ形で答えた。
〈もしも……これはイフという例えのある仮定の話や。もし、君が何もしなかったら〉
 そこで言葉を切り、龍のような姿をしているそれは軽くこうべをたれた。
 間を取るようにゆっくりと顔を上げたその生き物は彼女をじっと見つめる。
 口は笑っているような形でゆがみ、どこかはやてを嘲笑しているかのようだった。
〈貴君は、世界をつまらなくする為に力を貸す事が出来る人間にございまする。残虐な喜劇を担う者の一員と言ってもいいわ〉
 明らかに皮肉っている表情が、はやての癇に障った。
 だが、いつのまにかその言葉に納得している部分もあった。
 息を呑んでいる彼女に、それは訊ねる。
〈それはつまらねぇし、貴殿の望むところではあるまいて〉
 さあ。
〈あんたはどっちなのかしら?〉
「どっち……とは?」
 問い返すはやてに、それは口角をより引き上げた笑みを持って答える。
〈貴方は己の理想を妄想し、この現実に自分勝手に絶望するだけなのか。ただ引き篭もって立ち止まってるだけか。それとも。新たなる可能性と時間を作り出し、世界を動かす者なのかね?〉
 問いかけたそれは己の前に巨大な魔法陣を幾重も展開。その形状はミッドチルダ式とも、ベルカ式とも違うものだった。
 どういう魔法が発動されるのか、はやても見当がつかない。それでも現代の人間が扱える容量の魔力ではないことだけは確か。
 複雑でありながらも精緻な魔法陣で、発動者であるそれとはやてが隔てられるような形となる。
 それは静かに問いかけた。
〈大きな壁にぶち当たり、諦め切れずに飛び越える。お前にそれが出来るのか?〉
「―――」
〈不屈の精神を持ち、才能に恵まれず、それでもなお……這い上がれるかい?〉
 その言葉で今、はやての頭に思い浮かんだのは――とある親友たちのことだった。
 フェイト・T・ハラオウン。そして、『エースオブエース』の名を冠す高町なのは。
 二人はどんな難事件であろうとも立ち向かい、血反吐を吐きながらも困難に立ち向かってきた。
 時に彼女は思う。自分が二人の隣にいる資格はあるのだろうか――と。
 所詮、自分は魔導師としての資質をもっていたという理由で『夜天の書』の管理人格であったリインフォース・アインスの資質を受け継いだだけ。
 己の持つ資質を駆使し、その身に宿った力で世界と時代を動かしていく二人。
 それに比べ、関わった事件は二人より多くともこの才能は常人の域を出ていないはやて。
 三人合わせて『エースオブエース』と呼ばれる時もあるが、あくまではやては添え物程度。いわば、場を盛り上げる道化に過ぎない。
 あの二人よりも強い夢はあるが、その程度でしかない。
 目の前にいるそれの言葉を借りれば、「理想を妄想して絶望し、ただ立ち止まっている」に過ぎないのだ。
〈絶望のフィナーレには、まだ早すぎると思いませんか? フロイライン〉
 お前の心は見透かしていると言わんがばかりに、それは諭すように言った。
 その言葉で、自己嫌悪によって沈みつつあったはやての心が再び火がともった。
 龍の如き巨体と威圧感を持ち、海豚の如き滑らかな身体と皮膚を持つその生き物は挑戦的に言った。
〈なら、僕と契約して、世界を面白くしようぜ〉
 既に、はやての目はその動物にくぎづけだった。
 まるで夢物語のような事を語るそれの眼には周囲のものさえ狂わせるような狂気が宿り、
 歯を剥き出しにして笑うそれから放たれる威圧感はまさしく、獰猛な肉食獣のそれ。
 熱意と狂気にまみれた赤色に、はやては蛇に睨まれたカエルのようであった。
「……上等や」
 身体を震わせながら彼女はそう答えた。
 はやては思う。「棚から牡丹餅」というような展開を待っているだけではだめなのだと。
 対するその生き物は、ただ静かに、よろしい、とただ肯定するように鳴いて告げた。
〈信念と覚悟を力に。誇りを翼に。祈りを杖に。凶器を刃に。願いを己の魂と生き様を賭けて、己の正義に殉じたまえ〉
 同時に展開された魔法陣がゆっくりと回り始め、魔法が発動される。
「させませんっ!」
 今までは静観していたものの、流石に主の危険を察知したのだろう。
 結界魔法を展開しようとしたリインが、はやての前に躍り出る。
 その時だった。
「あぁっ!」
 魔方陣に触れたリインの身体が少しずつ崩れていく。
 最初に着ていた服が一瞬で消滅し、突き出した手の先から消えていく。
 まるで、彼女の身体を分解しているかのように。
 そのまま耳をふさぎたくなるようなリインの絶叫が部屋中に響いた。
「リインっ!」
 目の前で壊されていく家族の名を呼ぶはやて。
 しかし体の崩壊は止まらず、むしろ速度が速くなっていった。
「は……はやて、ちゃ……ん……」
 痛みをこらえるように、苦しそうな声でリインは主の名を呼んだ。
 それが彼女が主であるはやてに遺した最後の言葉だった。
 まだ胸の辺りまで残っていた身体が、解けて消えてなくなる。
 ――そう、それはまるで、はやてが冷たい雪と泥にまみれて誓いを立てた日。
 安らかな顔で灰色の空へと消えて行ったリインフォース・アインスと同じように。
 予期せず喪失に、崩れ落ちるはやて。そして目に涙を浮かべながら、目の前のそれに吼えた。
「リインに……リインに何をしたんや!」
 怒りに熱く燃える彼女と正反対に、龍のようなそれは氷の如き冷ややかな声で淡々と告げる。
〈安心したまえ。あるべき姿へと、還っただけである〉
 その言葉が終わるか終わらないかの内に、展開されていた魔法が発動される。
 周囲に浮かんでた紙は瞬く間に分解されていき、細かい粒子へとその姿を変えた。
〈受け入れるといい。それがてめぇの運命だ〉
 家族を失って悲しみに沈むはやてに向かって、それは突き放すかのように宣告する。
 無慈悲で残酷なそれが、彼女の聞いた最後の言葉であった。
 そして全てが光で白く塗りつぶされ、はやての意識も途切れた。

 †

 涼やかな風が吹き、枝葉が揺れる音が聞こえた。
 通り抜けたそれが頬を撫で、光が顔に当たる。
 余りの眩しさに、瞼越しであるにもかかわらず、彼女の目は痛みを訴えた。
「うっ……」
 刺すような痛みに、強く目を閉じて呻くはやて。
「気がつきましたか?」
 声が聞こえた。誰かが側にいる。はやては慌てて起き上がろうとする。
 しかし、その動作は声の主によってそっと押し留めた。
 そしてはやての瞼にそっと手が当てられる。
 その手は程良く冷たくて、スーッと清涼感のある良い匂いがした。
 恐る恐る瞼を開けるはやて。手の平で遮られ、暗いものの隙間から微かに光が漏れていた。
 次第にそのぼんやりとした光に目が慣れていく。
 気遣うように手がゆっくりと取り払われ、はやては目の前に広がるものを見る。
 痛みは薄れたが、まだ視覚がぼやけていた。
 はやての視界に見えているのは、緑色のぼやけたもの。
 それが葉っぱの色だとはやてが気付いたのはもう少し経ってからのこと。
 新緑の隙間から見えるのは空の青色とまぶしく輝く太陽。
 久々に空なんて見上げたなぁ、とはやては思った。
 暢気にそんな事を考えている彼女に声が掛けられる。
「大丈夫ですか?」
 それは鈴の音を思わせるくらい澄んだ声だった。
 軽く頭を上げるはやて。そのまま視線を声のする方へと向ける。
 はやての顔をのぞき込むように見ていたのは、金髪の少女だった。
 絹のように柔らかそうな髪。まるで溶かした金を髪にしたかのようだった。
 紫水晶のような瞳はきらきらと輝き、その奥底には安堵の色が見えた。
 膝枕されているのだろう。後頭部に柔らかくて暖かい太ももの感触がする。それがどこか心地良くて、気持ち良い。
 彼女から漂う慎ましやかで上品な雰囲気。何から何まで淑女然とした女性を、はやては一人しか知らなかった。
「……カリム……?」
 はやては擦れたか細い声で小さく呟く。
 わざわざ考えずとも、その名が自然と口についた。
 カリム・グラシア。聖王教会に所属する騎士にして、はやてにとっては姉のような存在。
 何故、彼女がこんなところにいるのだろうか。
 記憶が正しければ、その身に宿している特異能力資質レアスキルゆえに教会から出ることはほとんどないはずだ。
 それに目の前にいる彼女は、はやての記憶の中にある彼女よりどこか若々しくに見えた。
 いぶかしむ彼女の視線に気づいていないのか、金髪の少女は無邪気で可愛らしい笑顔を見せる。
「大丈夫そうで良かったです」
 下からその笑顔を見上げていたはやては、かあっと顔が熱くなるのを感じた。
 自分の知る彼女が、まさかこんな子供のような笑みが出来るとは思ってもみなかったからだ。
 はやてはその表情につい見蕩れてしまう。少女はじっと見つめて来る彼女にきょとんとしつつも、不思議そうに首を傾げる。
 その時、
「お~い、嬢ちゃん起きたか?」
 ガサガサと草むらを踏み分けて一人の青年が現れる。
 年齢は二十代ぐらいだろうか。口の右端にはキセルらしき、長細い管を銜えていた。
 羽織っているのはどこか学生服を髣髴とさせるようなデザインの黒いコート。
 はやてを膝枕していた少女が青年の名を呼んだ。
「あっ……ミドガルズさん」
「いい加減、みっちゃんと呼べよ……おい」
 ため息をついた彼は肩を落としてうなだれる。
 それと一緒に、コートにつけられていた金属のアクセサリーが揺れた。
 ゆっくりと顔を起こした青年は、状況が掴めていないはやてを見た。
 そして子供を思わせるような明るい笑みを浮かべる。
「山道のど真ん中でぶっ倒れてたが、大丈夫のようだな」
 彼はそう言うと、はやてに手を差し出した。
「ええ、ありがとうございます……」
 出された手をぐっと掴むはやて。引き上げて貰おうと力んだ瞬間、彼女のお腹が鳴った。
 一瞬だけ凍りつく空気。はやての顔が見る見るうちに赤く染まる。
 ミドガルズと呼ばれた青年が盛大に笑い出し、彼女もつられるようにクスクスと笑い出す。
 ひとしきり笑った彼は、にやりと歯を見せて笑いながら言った。
「とりあえず、メシだな」
「……はい」
 はやては真っ赤になった顔を隠しながら頷く。初対面の人の前で醜態を晒した恥ずかしさで、相手の顔がちゃんと見れなかった。
 引き上げられたはやては、自身の身体に怪我や不調がないか触診する。
 気分も悪くないし、身体を曲げ伸ばししても痛い所はない。空腹であること以外は問題ないようだ。
「ミドガルズさん……すみません。私もお願いします」
 さっきまではやてを膝枕していた彼女が正座した状態のまま、目にうっすらと涙を浮かべている。
 どうやら、はやての為に膝枕をしている間に足が痺れてしまったようだ。
 カリムにちょっと無理させてしまったなぁ、とはやては申し訳なさを覚えた。
 ミドガルズは口端をより歪め、
「おいおい、お前が優しいのは分かるけどさ。無理してんじゃねぇよ……クレア」
「はは、申し訳ありません」
 彼は悪戯っぽく笑いながらも声には心配するような響きをにじませて、彼女の身体を引き上げる。
 クレア、とミドガルズに呼ばれた少女は痺れている足をプルプルと震わせながら立った。
 ミドガルズの口から飛び出した名前に、はやては顔を強張らせる。
 驚きと共に、彼女は己の耳を疑わずにはいられなかった。
 確かに今、彼は目の前の彼女をカリムではなくクレアと呼んだ。
 その事実が示すことはただ一つ。
 つい先ほどまではやてがカリムだと思っていた女性が赤の他人だと言うこと。
 はやては一瞬にして、足元が崩れ去るのを感じた。
 状況が把握できず、意味が分からない状態で、彼女がまだ平常心を保っていられたのは――
 ひとえに、カリムによく似た女性がここにいて、彼女をカリムだと思っていたからである。
 それが崩れた今、はやては何が何なのかよく分からず、何を信じればいいのか分からなくなっていた。
 はやての目の前が真っ暗になる。ふっ、と彼女の身体から力が抜ける。
 倒れる先に待っているのは、硬い地面。衝突すればそれなりの痛みが伴うことだろう。
 それでも良いかなと、はやては思った。少なからず自暴自棄になっているのは分かっている。
 しかしそうでなければ、己の自我を保てる自信がなかったのだ。見間違えた恥ずかしさは確かにあった。
 だが、それ以上に右も左も分からない所に一人いる恐怖があったのである。
 今は痛みでも何でも良いから、壊れそうな心を和らげるものが欲しかった。
「うおっ……とぉ。大丈夫か? 嬢ちゃん」
 右手でクレアを引き上げていたミドガルズに左腕で抱き留められる。
 外見は細身であるが、割と鍛えているのだろう。彼女の身体を支える腕はがっしりとしていた。
「あ、すみません……」
 恥ずかしさがこみ上げ、顔に血が集まるのを感じて離れようとするはやて。
 しかし、何故か身体が離れようとしなかった。
「あ、あれ? なんでや?」
 言うことの聞かない自分の身体に、はやては目を白黒させる。
 彼女のそんな姿をミドガルズはキセルの煙を揺らしながら何も言わず見ていた。
 そしてクレアがちゃんと立ったのを認めるとそのまま、
「ふぇ……?」
 ミドガルズは空いた右腕を彼女の後頭部に回した。
 そのせいで、はやては彼の胸板に顔を押し付けるような感じになってしまう。
 男性に抱きしめられている。そう思った瞬間、はやては顔だけではなく身体が熱くなるのを感じた。
「気にすんな」
 小柄なはやてをすっぽりと抱くような形になった彼は、そう言って背中を軽く叩き始めた。
 それはまるで情緒不安定な子供をあやし、落ち着かせるような感じであった。
 みっともない事ばかりして、今は見知らぬ異性に慰められている。
 醜態を晒してばかりで恥ずかしかったが、はやては抱いてくれる相手に妙な安心感を感じた。
「ん~。まぁ……」
 クレアの生暖かい視線を感じつつ、ミドガルズは腕の中にいる相手を諭すように言った。
「時には、こんな時もあんだろ」
 まだ少しドキドキしているが、はやての心はさっきより落ち着いていた。
 誰かにこうして貰った経験がない彼女にとって、それは驚くべきことだった。
 彼女が落ち着いたのは分かったのだろう。腕を解き、ミドガルズはゆっくりと離れる。
「ありがとうございます。えっと……」
「みっちゃんだ」
 笑みを浮かべつつも強調するように言うミドガルズ。
 あくまで彼は、名前ではなく「みっちゃん」と呼んで欲しいらしい。
「とりあえず、メシでも食おうぜ。話はそれからだ」
 頭についている草や土を払う為だろう。彼はケラケラと笑い声を上げて彼女の小さな頭を撫でる。
 少し乱暴であったが、それでもどこか相手を安心させようとする気遣いがあった。
 そんな経験のないはやてには、それがとてもくすぐったかった。
「ミドガルズさぁ~ん……」
「はいはい。クレアはおっちょこちょいだなぁ」
 クレアが地面に尻を突いて困ったような声で助けを呼ぶ。どうやら足に痺れが残っていて、立ってられなかったようだ。
 目に涙を浮かべている彼女をミドガルズは苦笑しながらも再び片腕で軽く引き上げる。
 そして彼は右手でクレアの手を握ったまま、はやての方に左手を差し出した。
「ほれ、手」
「え?」
 彼の行動の意図が分からないはやては首を傾げる。
 口に銜えていたキセルを無造作にシャツの胸ポケットに突っ込んだミドガルズは真顔で言った。
「はぐれて迷ったら困るだろ? それに……」
 いきなりはやての右手を取ると、彼は指を絡めた。
「一人が寂しい時は手をつなぐのが良いもんだ」
 そう言ってミドガルズはいたずらっぽくウィンクすると、そのまま二人の手を引いて歩き出す。
 しかし、はやての意識はそれどころじゃなかった。
 手のひら同士を合わせ、指の間に指を絡ませて握るつなぎ方。それはまさしく、「恋人つなぎ」と呼ばれるそれに他ならない。
 さっきから異性に抱きしめられたり、頭を撫でられたりなどしている。そして今は恋人同士でするようなつなぎ方をさせられている。
 目覚めてから初体験だらけな意味の分からない状況に、彼女の思考はショート寸前だった。
「はっはっはっ……両手に花だぜ」
「本当に、ミドガルズさんは手をつなぐのが好きですね」
 彼の突発的な奇行に慣れているのだろう。クレアは楽しそうに鼻歌を歌いながら歩くミドガルズを見て微笑む。
 はやての方は恋人つなぎの衝撃から抜け出せないのか、振り回すように腕を振られているにもかかわらずなされるがままだ。
 慈母のように優しく笑う彼女に、彼はまるで無邪気な子供のように笑って答えた。
「本当に些細なことだけど、誰かのぬくもりを感じられるのって大切なんだぞ」
「……?」
 それにはクレアだけでなく、我に返ったはやても意味が分からず首を傾げた。
「誰かがそばにいる。それは何気ない普通のことかもしれねぇ」
 ミドガルズは前を戻すと、顔と視線をわずかに上へ向ける。
 その先には空があり、つがいらしき二匹の鳥がちょうど木から飛び立った。
「でもな、それは当たり前だけど、ぜってぇ無くしちゃいけねぇとても特別なもんだ」
 彼が一体、何を見ているのかは分からない。それでも、その言葉は自然とはやての心に入り込んできた。
 やはりその言葉の意味はよく分からないが、胸の奥が温かくなるものがあった。
 それと一緒に、さっきから感じていた羞恥心がいつの間にかなくなっていた。
 残っているのは、彼のごつごつとした手の平の感触とそこから伝わるぬくもり。そして妙な心地よさだった。
「ふふっ……ミドガルズさんは時々、不思議なことを言いますね」
「だから、俺のことは、みっちゃんって呼べって」
 クスクスと笑うクレアに、ミドガルズは疲れたような声を出す。
 時間にして十分ぐらい道なき道を歩くと、突然ひらけた所に出る。
 野営でもしていたのだろうか。積まれた薪の上で火がパチパチと燃えている。
 そして焚き火のそばでは、男装をした金髪の少女が何か作業をしていた。
「お疲れ」
 両手を塞がれている彼はその少女に軽く声をかける。
 それに気づいた彼女は身体を起こし、手をつないでいる三人を見た。
 髪はセミロングで、その色はクレアのものと比べると少し暗めに感じられた。
 彼女の中で特に印象的なのは、顔の左半分を覆い隠している眼帯だった。
 はやての知る医療用のものと違い、少女のしているそれは革と金属で作られた実用的なものであった。
 女の子が使うものにしてはやけに仰々しくて無骨だが、彼女の男装とあいまってどこか似合って見えた。
「約束どおり、取って置いたわ」
 ミドガルズたちの存在を認めた少女は手元にあった物を投げて寄越す。
 投げられたそれを片手でキャッチしたはやては、手の中にある物に仰天する。
「っ……うわぁぁぁっ!」
 驚きの余り、はやては左手にあった毛むくじゃらのそれを地面に取りこぼす。
 音を立てて地面に落ちたそれは種類は分からずとも、確かにそれは動物の足だった。
 血抜きはしているようだが、それでも切り取られたその足には生前の温かみがまだ残っていた。
「何騒いでるのよ……ただのウサギの足じゃない」
「で……でもなぁ……」
 つないでいた右手を振り解いて慌てふためく彼女の姿を眺めて嘆息しつつも、金髪の少女は手元にあったウサギの毛皮を剥いでいく。
 ミドガルズといえば、ビビっているはやての姿を見て豪快に笑っている。
「私でも、いきなり投げられたら驚きますよ……? それ……」
 ウサギの足を投げた彼女にドン引きしているのだろう。クレアの左手は隣で今も手をつないでいる彼の手をぎゅっと握り締め、右手はそのコートを強く掴んでいた。
 ひとしきり笑った彼はしゃがみこんで、はやてが地面に落としたウサギの足を拾う。手の上でそれをもてあそびながら彼は言った。
「まぁ、とりあえずメシでも作るか」

 †

「ミドガルズ・カヘクスヴェリアだ。とりあえず、みっちゃんと呼べ」
 食後の一服にシャツの胸ポケットから抜いたキセルを吸いながら、ミドガルズはそう名乗った。
「クレメンティア・グラシア・スヴェントヴィトです。クレア、って呼んでくださいね」
 優しげな笑みを浮かべてそう言ったクレアは残った骨を地面に埋め、その上に土をかけ始める。
 瓜二つの外見といい、グラシアというファミリーネームといい、彼女はカリムと何かしらの関係があるのかもしれない。
 しかし、グラシアの後に続いたスヴェントヴィトという名に、はやては聞き覚えがなかった。
「……ヴィオレッタ。ヴィオレッタ・ヴィクトリカ」
 眼帯の彼女は少し間を取ってからぶっきらぼうにそう言って脂の付いた手を視線を落とす。
 そして布で自身の手を無言で拭き始める。陽気なミドガルズや礼儀正しいクレアと違って、彼女はどこかはやてを拒絶している雰囲気があった。
「いっちょまえに人見知りかよ……ヴィヴィ」
「……うるさい」
 キセルを吹かしつつミドガルズは髪が滅茶苦茶になるくらい力強く、隣にいる彼女の頭を撫で回す。
 ケラケラと笑う彼の姿に、ヴィヴィは苛立ちを混じりの声を出して威嚇するように睨みつけた。
 ミドガルズにしてみれば、年下の可愛い女の子に睨まれても怖くないのだろう。それでも彼は笑みを絶やず楽しそうだった。
「で、嬢ちゃんはなんていうんだ?」
 急に話題を振られて驚くはやてであったが、それでも落ち着いて自己紹介をする。
「私の名前は、はやて。八神はやてや」
「不思議な名前ですね」
 そう言ったのは、ウサギの骨を埋めた所の前で十字を切っていたクレアだった。
 確かにこの人たちから見ればおかしいやろうなぁ、とはやては心の中でそう考える。
「私の住んでいた所では、これが割と普通やったんけどな」
 ミドガルズたちは名前に当たるファーストネームが最初に来て、その後にミドルネームなりファミリーネームなりが来る。
 しかし、はやてのいた国では苗字に当たるファミリーネームの後に、ファーストネームが来ている。
 そういうものは国や民族、あるいは文化的側面によって大きく変化するものだ。
 名前の文化的観点から鑑みるに、ここはミッドチルダかベルカ――もしくは、はやての世界で言う西洋文化の世界と考えて良いだろう。
 更に突き詰める為に、はやては比較的話が通じやすそうなミドガルズに声をかける。
「えっと、ミドガルズさ……」
「俺のことは、みっちゃんと呼べ」
 そう言って、満面の笑みを浮かべるミドガルズ。
 流石のはやても初対面の人、それも年上らしき異性を馴れ馴れしく呼ぶのは抵抗があった。
 クレメンティアを「クレア」と呼ぶのは略称だからまだ呼びやすい。
 だが彼の希望する「みっちゃん」という呼び方は明らかにあだ名の部類だ。それにいささか子供っぽい。
「ミド……」
「みっちゃんだ」
 相手がちゃんと呼ぶまで繰り返すつもりなのだろう。ミドガルズは顔の笑みを全く崩さない。
 ここまで来ると、どっちかが折れなければ話は進まないことだろう。
「……みっちゃん」
 先に諦めて折れたのは、はやての方だった。
 その希望に従い、彼女はミドガルズをあだ名らしき名前で呼ぶ。
「何だ?」
 要望が叶い、ミドガルスはニヤリといたずらっぽく笑った。
 大人気ないと思わずにはいられなかったが、話の邪魔になると判断。
 はやては彼をじっと見ながら静かな声で話を切り出す。
「ここはどこなんや?」
 やはり質問としておかしいものだったのだろう。
 彼女の問いに対し、近くにいたクレアは首を傾げる。
 ヴィヴィは表情こそ変えないが、それでも怪訝そうな視線をはやてに向けている。
 しかしミドガルズだけは不思議そうな顔をせず、真顔であっさりと答えた。
「ベルカ地方だな」
 まだ少し半信半疑だが、はやては自身がどういう状況にいるか納得出来た。
 ベルカ地方。頭の記憶が正しければ、それは聖王家が成立する前に使われていた呼び名。
 はやてなどが使うベルカ式の名前の由来は発祥の地がベルカ地方であったからだといわれている。
 何故ならばこのベルカ地方が特に民族間戦争や内部紛争が激しく、その中で殺傷能力特化の魔道言語術式が育まれて来たからだ。
 初代聖王が世界統一を果たした際にそれらの言語術式もある程度は統一され、それが最終的に「ベルカ式」と呼ばれるようになったらしい。
 聖王教会に所属するカリムや古代ベルカについて調べているルーテシアが言っていたのだから、その情報は信用できるものだろう。
 確かに、ミドガルズは今いる場所を「ベルカ地方」と呼んだ。ならば、今いる時代などもある程度までは推測可能だ。
 とんでもない場所に来てしまったと、はやてはそれを声に出さずとも心の中ではそう考えていた。
 原因は分からないものの――自分は今、聖王家誕生前のベルカに来てしまっているのだから。
「ちなみに私の所属するところの暦で、武星暦859年ですね」
 微笑みながら人差し指を立て、ミドガルズの情報に補足を加えるクレア。
 『武星暦』という言葉で、はやては古代ベルカに来ているのだという確信を得た。
 彼女の言ったその年号もまた、初代聖王が統一を果たす前まで使われていた呼称であった。
 武星暦が移行するまで後どのくらいか分からないが、歴史が変わる激動の時期にやってきてしまったことは間違いない。
「なぁ、はやてちゃん」
 キセルを左手で回しながら彼は、黙り込んだはやてに声をかける。
「……なんや?」
 いきなり声をかけられて驚いたのだろう。彼女は少し間を空けてから反応を返す。
 流石のはやても、ほとんど初対面の相手にちゃん付けで呼ばれるとは思わなかった。
 少しくすぐったく感じるものの、不思議とそれが馴れ馴れしいとまでは感じなかった。
 むしろ、はやてには彼が自分をそう呼ぶのが普通のことであるようにも思えた。
 相手の出方を伺うようなはやての視線を受け止めつつ、キセルを口に銜え直すミドガルズ。
 細目で彼女を眺めながら回答に困るはやてに言った。
「これからどうすんだ?」
「……」
 声に真剣さが混じった彼の質問に、はやては何も言えなかった。
 湾岸警備部捜査司令の執務室にいたはずなのに気がついたら、クレアに膝枕されていたのである。
 だからはやて自身も、何が起きてこうなったのかよく分からないのであった。
 もちろん、時間をさかのぼって古代ベルカの時代に来た原因も、元の時代に帰る方法もよく分からなかった。
 ならば、戻る方法を見つけるまではこの時代で生き延びなければならないのである。
 しかしこの世界がたどる未来みちは知っていても、彼女にとってこの場所は右も左も分からない未開の地に変わりない。
 どうすれば良いのか分からないのに、そういう質問をされてもはやては明確な答えを出すことが出来なかった。
 どこか張り詰めた空気が漂う中で最初に動いたのは、ミドガルズだった。
 キセルを指と指の間に挟んだ彼はその左手を差し出す。
「何もないなら……俺たちの旅に同行しようぜ」
 な? と問われたはやての身体がぴくりと動いた。
 何か言おうとして、しかし彼女は
「―――」
 困った、という顔で、そのままうなだれる。そして彼女は左で自分の顔を覆い隠すように深く息を吐く。
 その仕草一つからも困っているのが見て取れ、その提案に対する返答に迷っているのが分かった。
「ん~」
 気を紛らわせると同時に思考を新たに働かせる為だろうか。ミドガルズは左手のキセルを口に持っていく。
 少し経ってからキセルの火皿から細い煙が上がり、どこか香ばしい匂いが周囲に漂う。
 第三者の視点から見ればきっと、困惑しているはやてのことなど気にも留めようとせず、暢気に喫煙を楽しんでるように見えることだろう。
 だが、彼は一度たりとも返答に迷う彼女から視線を離していなかった。
 その冷徹な眼差しはどこか静かに獲物を狙う狩人を思わせた。
 先から出る白い煙を揺らめかしながらミドガルズは問いかける。
「はやてちゃん……『異邦の迷い子』なんだろ?」
「異邦の迷い子……?」
 彼の口から出た謎の単語に首を傾げるはやて。
 あはは、とキセルを口から離した彼は笑って答えた。
「分かりやすく言えば、異世界人だな」
 ――異世界人。まだどこかしっくりと来ないが、今の立場はまさしくそれだと、はやては思った。
 原因も分からぬまま、頼るものも何もないところへと迷い込んでしまった迷子。
 認めたくはなかったが、認めざるを得ないということだろう。
「誰も自分を知らない世界へと迷い込んでしまった異邦人。それが、『異邦の迷い子』だな」
 彼にとっては何気なく言った言葉であっただろう。
 しかし、はやては頭では理解できてもそれを受け止められなかったのだろう。
 その言葉を受けたはやての顔を見てしまったクレアはどこか悲しげな顔をする。
 呆然とも、哀しみとも、憤っているとも見える、何もかも失ったような顔をする彼女。
 こんな顔をさせてはいけない。きっと、そう思ったのだろう。
 絶望に似た感情をにじませる彼女をニヤニヤと笑って見るミドガルズを止めようとする。
「ミド……」
 だが彼はクレアが動くよりもはるかに早く次の行動に移った。
「はやてちゃん」
 それは笑いながら、目の前で沈んでいるはやての名を呼ぶことだった。
 しかしその笑顔はさっきのものと違っていた。
 さっきまでは仕草から感情の機微すら読み取ろうと、まるで患者を診るカウンセラーのように相手を観察していた。
 さっきまでの冷ややかで薄っぺらいものと違って、今の笑みはどこか柔らかくて温かい。
「はやてちゃん」
「……」
 しかし、はやてはミドガルズが何度呼ぼうとも全く反応を返そうとしない。
 明らかに己の意識を閉じている彼女に業を煮やした彼はその両頬を摘む。
 その動作に移る際に全くの躊躇いもなく、迷うことなくミドガルズは摘んだ頬を左右に引っ張った。
「いひゃい……いちゃいれふ……」
「なら、こうしようぜ」
 はやてが目に涙を浮かべて痛がっていることなど気にも留めず、ミドガルズは頬を引っ張りながら動かした。
 彼女の顔を、己の顔に向けさせる。
 そしてまるで今思いついたかのような口調で、ミドガルズは言った。
「ひとまず、はやてちゃんがこの世界で足場を作れるまで一緒に旅しよう」
 口元に笑みを浮かべ、キセルの吸い口を咬んでわざと歯を見せ、
「そんで、何かしらの目的が出来た時が来たら」
「自分の進む道を決めれば良い。そういうことか?」
 相手の手首を掴んでやんわりとその手を外し、その言葉を引き継ぐように答えたはやて。
 それに対し、ミドガルズは満面に浮かんだ笑みをより深めて応えた。
「……で、話は終わった?」
 割り込むように声をかけたのは、さっきまで無言を貫いていたヴィヴィだった。
 その視線は何故か、はやての右目に注がれている。
 不思議そうな顔をする彼女を眺めながら、眼帯の少女は問いかける。
「その目は……自前?」
 じっと彼女を見ながら真剣な顔でヴィヴィが投げかけた質問に、クレアは身体を軽く震わせて顔を強張らせる。
「はい?」
 だがはやては目の前の少女から口から飛び出した問いに首を傾げるしかない。
 言葉の意図がつかめていないはやてに、クレアは恐る恐る声をかける。
「あの、どうぞ……はやてさん」
 そう言って、差し出されたのは小さい鏡。
 意味が分からないまま渡されたそれで自分の顔を見る彼女。
 そして映っている異変に、はやては驚愕する。
「なんや……これ」
「えっと、気づいてなかったんですか?」
 驚きの余り身体を振るわせる彼女の姿に、クレアも驚いたような顔をする。
 何故なら、元は濃いとび色である両目の虹彩が片方だけ綺麗な水色に染まっていたからだ。
 指摘されるまで気づかなかった異変に目を白黒させるはやて。
「心配しなくとも問題ねぇって」
 そう言ったのは銜えているキセルを上下に揺らしていたミドガルズだった。何故かキセルの火皿から白色ではなく七色の煙が渦を巻きながら上がっている。
「膨大な魔力が目に集中して、そのせいで色が変わってんだ」
 ようするにお前とご同類だよ、と言って彼はヴィヴィを見ながらニヤニヤと笑う。
 茶化すようなミドガルズの言葉に、彼女は顔を真っ赤にさせて知らないと言わんがばかりにそっぽを向いた。
 そんな彼女に彼はキセルを銜えたままクククと忍び笑いを漏らしつつも指示を出す。
「とりあえず、お前の眼帯を貸してやれ」
 からかわれた後に命令されるのはいささか癪に障るのだろう。彼女は渋々と自身の鞄に手を入れ、そこから茶色の眼帯を取り出す。
「……はい」
 顔を合わせたくないのか、顔をそらしつつはやてに眼帯を差し出すヴィヴィ。
 声をかけられてやっと驚きの衝撃から脱したのだろう。いきなり渡されたそれにはやては首を傾げる。
「これだと、何かまずいんか?」
 はやての親友であるなのはに養女として引き取られたヴィヴィオやその友人であるアインハルトも今の彼女と同じ虹彩異色オッドアイだ。
 彼女らが強いからそういうことをされることがないのか、それで苛められているという話を彼女が耳にしたことはなかった。
 それにここは、はやての考えが正しければ――ヴィヴィオとアインハルトにとっては故郷のようなところだ。
 彼女らを『聖王』や『覇王』と崇めていた地で虹彩異色が問題視されているとは思えない。
 だから彼女には、虹彩異色で何か問題があるという風に振舞う三人にふと疑問を持ってしまったのである。
「ん~。まぁ、色々と……な」
 はやての言葉に少し考えるように軽く空を見上げるミドガルズ。
 それはどこか言葉を濁すような物言いで、まるで何かを誤魔化そうとしているかのようだった。
 瞼を閉じて無言のままキセルを吸う彼が何を隠しているのか、はやてには分からなかった。
 しかし、何も言わず物憂げで悲しそうな顔をしているクレア。そしていつのまにか隠されていない右目でじっとはやてを見つめている無表情のヴィヴィ。
 そんな三人の姿に、彼女はそれをこれ以上言及してはいけない気がした。
 右の瞼を閉じ、ひとまず虹彩が青く染まった目を隠すように眼帯をつけるはやて。
 元いた時代の病院で使われていた医療用の眼帯も使ったことのない彼女にはヴィヴィの使っている物はやり辛いのだろう。つけるだけでも四苦八苦していた。
 おぼつかない手つきのはやての姿に母性本能をくすぐられたのだろう。クレアが小さく苦笑いしつつも、彼女の後ろに回って眼帯をつける。
「あ、ありがとうなぁ。クレアさん」
「いえいえ、どういたしまして」
 礼を言うはやてに、クレアは頬を赤らめて柔らかい笑みをこぼす。
「さて……と」
 キセルを楽しんでいたミドガルズが立ち上がり、笑みを浮かべて言った。
「そろそろいくかっ!」
 まるでそれが号令であったかのように、クレアとヴィヴィも動き出す。
 歩き出したミドガルズに、やれやれと言った苦笑を浮かべながらも彼についていく。
「えっと、どこへや……?」
 ただ一人意味が分からないはやてが、見るからに楽しそうなミドガルズに訊ねた。
 彼女の問いに対し、立ち止まって振り向いた彼は真顔で一切の躊躇いもなく、
 まるで散歩に出かけると言わんがばかりの軽い口調でそれに答えた。
「え? 戦場」
「はい?」
 真顔で答えるミドガルズに、はやては思わず首を傾げる。
 最初は聞き間違いをしてしまったかと、彼女は己自身の耳を疑った。
 しかし笑みをたたえている彼の顔を見れば、本気で言っていることは明らかだ。
 びびらせる為に言っている線も考えたが、冗談を言っているようには見えない。
 楽しそうに笑ってはいるものの、今からどこかの戦場に乱入するというのは真面目に言っているようだ。
 彼のその口ぶりは遊び半分でふざけているのではないかと思うくらい軽い。
 だが、この青年だけでなくクレアとヴィヴィから漂うものは確かに乱入する気満々なのだと伝わってきた。
 この人たちはマジでやる気だ。そう分かった瞬間、自然とはやての顔も強張る。
 その時、前方から大きな爆発音が聞こえた。しばらくして狼煙のようなものが空へと上がった。
 視線を立ち上る煙の方へと向けたミドガルズは歯を剥きながら邪悪な笑みを浮かべる。
「あ~ぁ。どうやら我慢出来なくなったようだな」
 堪え性のない奴らだ、そう呟くと彼は喜び勇むように走り出した。
 それを追うようにクレアとヴィヴィも足を速める。色んな意味で置いてけぼりになったはやては、せめて三人についていこうと彼女も走り出す。

 †

「はぁっ……はあ……あっ……ふっ……」
 運動不足かなぁ、とはやては足を動かしながらそう思った。
 彼女の身体は馴れない運動で過剰に酸素を求め、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
 服は汗を吸って重くなり、羽織っているコートには撥ねた泥や枝がくっついていた。
 四人が走るのはまさしく獣しか通らないような整備のされていない道。
 はやては過剰な運動で身体が火照り、頭が熱で浮かされるのを感じながらも三人の背中を見失わないように必死で足を動かす。
 必死な彼女に反し、前方の三人はまるで歩き馴れているかのようにスピードを保ったまま森の中を駆け抜ける。
 余りにも健脚なミドガルズたちに舌を巻くはやてではあるが、もみくちゃになりながら荒々しい息を吐いて走る自身に対しては自己嫌悪すら覚えた。
 前線を退いた覚えはないとは言え、デスクワークが増えるとここまで身体能力が衰えるとは。
 これでは、陸戦では今でも運動音痴である親友のなのは以下だ。流石にこのままでは前方の三人に置いていかれることだろう。
 そう考えたはやては肉体強化の魔法を詠唱破棄で発動。そこで彼女はとある違和感を覚えた。
 魔導師が魔導師たる特殊器官であるリンカーコアから上手く魔力が供給されず、両足にかけた脚力強化魔法の効きもどこか薄い。
 むしろ――魔力の制御自体がおぼつかなく、ちゃんと魔法が発動出来ていない感じがした。
 今度は『書』を展開させてちゃんと魔法を発動しようとするが、彼女のデバイスはその手に出現しない。
 何が起きているのだろうか。いきなり降りかかってきた不安によって額から汗が噴き出し、彼女の吐く息もより激しくなる。
 自衛手段である魔法が不安定になるという事は、彼女にとって己が頼れる支えがまた一つ減る事を意味している。
 少しでも不安を紛らわせる為に立ち止まり、胸を手を当てて息を吸うはやて。しかし呼吸がおさまる事はなく、見えない何かが全身をキリキリと締め上げていく。
 余りの苦しさに彼女の身体がくの字に曲がり、何かが腹の奥底から込み上がってくるような感覚を覚える。吐き出して楽になろうとも、出てくるのは空気の塊のみ。
 上手く息が吸えなくなっていき、身体が酸素を求めて悲鳴を上げ始める。だが何故かリンカーコアと頭だけは少しずつ熱を帯びていき、徐々に魔力が満ちて脈動しながら活性化していくのが感じ取れた。
 今の状態と過去の経験を照らし合わせ、思い当たるものを見つけた瞬間、はやての身体が自然と小刻みに震え始めた。それも尋常ではない震え方だった。
 末端から感覚が喪失していき、自分で自分の身体が制御できない感覚。
 それでありながらも、それらと反比例して頭と魔法発動の為に重要な特殊器官であるリンカーコアが尋常ではない熱を発散しながら活性化が起きている。
 それは、彼女に宿っている『闇の書の闇』が己を復活させる為に絶えず与えてくる負担が身体と核を蝕んできていた時と同じ状況ということ。
 『夜天の書』を『闇の書』に変えたあの「負の遺産」は、あの幼き頃のとある冬の日にその管制人格たる『彼女』が持ち去った。
 だが、本当に『彼女』が「負の遺産」を根こそぎ持って行ったのだろうか。
 本当は、『闇の書』の核と自身のリンカーコアが繋がった瞬間にその欠片が己の核に混ざり、寄生しているかもしれない。
 そして、それが今も静かに復活の機会を待っていないと断言できるだろうか。
 考えれば考えるほど疑心暗鬼になってしまい、自身の状態にさえ何かしらの疑いを感じずにはいられなかった。
 いつか自分が自分でなくなり、その本能の赴くまま無差別に魔力や魔法を蒐集し、最終的にこの世界すら食い物にしてしまうかもしれない。
 もし、この時代でこの身体の深くで今も生きているかもしれない『闇の書の闇』に呑み込まれて、その絶望に堕ちたら――
「嫌や……」
 はやては怖くて怖くて仕方なかった。
「嫌や……嫌や、嫌や、嫌や、嫌や、嫌や、嫌や……嫌なんや……」
 彼女の感じている不安の中には、ベルカの歴史を改変してしまうかもしれない不安はあった。
 だが、それ以上に――
「死にとうない……」
 誰にも看取られないまま一人で、知り合いのいないこの世界で『はやて』という存在が消えるかもしれない。
「こんな、とこで……」
 そんな恐怖がはやての頭と胸の中をぐるぐると渦巻いていた。
 自身がまだちゃんと生きている事を確かめるかのように己の身体を強く抱きながら、はやては力強く吠えた。
「死にとうないんやあぁぁっ!」
 空に向かって咆哮した彼女はゆっくりと身体を曲げて地面を見た。
 少し乾いた地面にぽつぽつとした点があり、両頬も少しだけ水気で濡れている。いつの間にか泣いてしまっていたようだ。
 苦しさも消え、身体は少しだけ寒気が残るものの感覚はある。どうやら、さっきまで感じていたものは一過性のものだったようだ。
「……っ!」
 慌てて泣き跡をコートの袖で軽く擦るはやて。流石に泣いてたのがあの三人に分かられるのは個人的に嫌だった。
 どこか無愛想なヴィヴィはともかく、クレアはついさっき会ったばっかりのはやてに対しても心配する事は目に見えている。
 ミドガルズに関してはまるでこっちの心の内を読んでいるかのような対応を取って来るに違いないし、ニヤニヤと笑われながら遊ばれるというのも癪だった
 もう姿が見えなくなってしまったが、三人が踏み進んで出来た足跡を道しるべに、はやてはその後を追う。

 †

 はやてがミドガルズたちに追いついた時、彼らは丘から下を見降ろしていた。その表情は曲がりなりにも管理局の武装局員である彼女ですら、つい背筋が震えてしまうくらい真剣な顔つきをしていた。
 彼らは一体、何を見てこんな表情をしているのだろうか。意味も分からずまま三人に見習って下を見るはやて。
 うっかり、「それ」を見てしまった彼女は思わず口を押さえる。
「うぶっ……」
 覚悟もなしに見てしまったせいか、いきなり圧し掛かった極度の緊張とストレスによって身体の奥底から熱い物がこみ上げて来た。
 昇ってきたそれが口から出ないように手で押さえつけるが、勢いに負けてほんの少しだけその酸っぱい物が指の間から溢れ出る。
「だっ……大丈夫ですか!? はやてさん」
 臭いで彼女の急変に気付いたクレアは表情を崩し、慌てた風にその背中を撫でる。
「あ~」
 身体を曲げて、力一杯口を押さえつけながらも指の間から吐瀉物を漏らすはやてを見ながら苦笑いするミドガルズ。流石に彼も彼女がその光景で吐くほど、「それ」に対する耐性がないとは思いもしなかったようだ。
「とりあえず、そこらへんにぶちまけた方が良いぞ」
 笑うに笑えないのか、そう言ったミドガルズはどこか気まずそうな表情をしている。
「ええ、そうね。出かかっているのを飲む込むのは流石に……辛いわ」
 さっきまで無関心不干渉を貫いていたヴィヴィでさえもこれには見ていられなくなったのだろう。我慢しているはやての側に寄って、その背中を軽くたたく。顔の表情自体は変わっていないが、雰囲気だけはどこか心配しているかのようだった。
 どこか渋い顔をする彼女のアドバイスに従い、はやては溢れてしまうくらい口一杯に広がっているそれを地面にぶちまける。
 胃液の酸っぱい臭いと共に、つい先ほど食べた物の残骸と言えるものがびちゃびちゃと音を立てて地面に撒き散らかされる。
 丘の向こうで広がっていた光景。それは、もはや現実の地獄や煉獄と称しても良いくらい惨たらしい世界だった。
 そこはまさしく鉄火場で、燃え盛る炎の中で生と死がぐちゃぐちゃに入り混じり合った戦場だった。
 妙に熱い風に乗って火薬の焼ける臭いと人の肉が焼ける嫌な匂いがそこから少し離れたここまで来ていた。鼻につくその臭いは頭の奥をヂリヂリと焼き、吐き気と嫌悪感をもよおすくらい酷いものだった。
 焼ける臭いに交じってむせ返るくらい濃厚な死の匂いが薫り、その背筋を冷たくさせては彼女の心身を追い詰めていく。
 はやては食べた物を吐き出した後も、胃液などを身体から押し出して周囲にまき散らす。
 獣が周囲のものを威嚇するように大声を上げて高々と吠える声に、耳を塞ぎたくなるくらいの断末魔。
 それらは馴れない者の頭に命を奪い奪われるその光景を焼きつけ、その平常心を麻痺させて狂気の領域へ引きずり込むには十分過ぎるものだった。
 確かに、はやてもそれなりに長く管理局の武装局員として仕事をしてきた。仕事の中で何度も人の死体は見てきた自負もあった。それこそ、次元犯罪者を取り扱う執務官のフェイトにも負けないくらいだ。
 その中で部下や反抗組織の構成員の死体などもいくつか見て来たが、それなりに綺麗なものが多かった。だから、ここまで酷いものは見た事が無かった。
 人はいつか死ぬもの。自分もいつか死ぬし、そういう仕事をしている。だから何があろうともちゃんとそう死を受け止められなければならない。
 常にそう思っている彼女の覚悟すら無に帰すほど、今回の光景は無惨なものだったのである。
「うわぁ……すっげぇ血なまぐせぇ」
 とりあえず女性が吐いている姿を見るのは行儀悪いと思ったのだろう。ミドガルズはヴィヴィに肩を抱かれながらも背を撫でられているはやてから背を向けるようにして、再びこれから向かう世界を眺めていた。
 何故か青みがかった彼の片目には魔法陣が浮かび上がっていた。
 どこか呆れるような声を漏らして渋い顔で彼はぼやく。
「はぁ、何が楽しいやら」
 そう言いながらも彼の口元には楽しそうな笑みを浮かんでいた。
 まるで今から悪戯を始めようとする悪餓鬼のような雰囲気が漂っていた。
「そんなの、どうでも良いわ。例え人が何人死んだって」
 水を差すようにそう言ったのは、戦闘が起きている地上ではなく空の方を眺めているヴィヴィだった。
 しかしそれでも苦しげに息を吐くはやての身体を倒れないようにしっかりと抱いていた。
「ヴィヴィ、そんな事を言っちゃ駄目ですよ」
「……クレア」
 はやてから離れて青年と共に戦況を見守っていたクレアはそう言ってヴィヴィを笑顔でたしなめる。
 その目は確かに可愛い妹を見る姉のそれであったが、その仕草はどこか我が子を叱る母親のようでもあった。
 怒られたのが癪なのか、何も言わずそっぽを向くヴィヴィ。
「てめぇら、姉妹で喧嘩してんじゃねぇよ」
 今から三人が行おうとしていることを考えれば、それは暢気にも程があるやり取りであった。
 実際に彼もそう思っているのか、二人の少女を見ながらクククと笑っている。
 茶化すようなその一言によって怒りの矛先を変えた二人は、むっとした顔で彼をじっとにらむ。
 美少女である二人に睨まれても可愛らしいと思っても、恐怖を感じたりはしないのだろう。
 陽気に笑いながら青年はキセルを銜え直し、ヴィヴィとクレアに指示を出す。
「二人は仲良く左側をやれ。俺はこの子連れて、右側制圧してくっから」
 そう言って彼は少しげっそりとした顔を強張らせ、少しふらつきながらも立ち上がったはやての方を見る。
 青年は吸い口を歯で挟みながら悪戯っぽく笑い、魔法陣が浮かんでいた片目を閉じて訊ねた。
「鉄火場に突っ込む覚悟は固まったか? 麗しのお嬢様フロイライン?」
 既にクレアとヴィヴィは己の持つデバイスを展開し、その手に得物を手にしていた。
 剣を携えたクレアは女性に向けられた問いに対して柔らかく笑い、
 ヴィヴィは、肯定するが如く両拳につけた手甲を打ち合わせる。
 己の知らない所で進んでいく状況。まるで遊びに行くが如く楽しそうな三人。
 ただ一人、武装していないはやては改めて思った。
 何故、自分はこんな所でこんなことに巻き込まれているのだろうか……と。
「ん~、まぁ……それでも」
 クックックッと喉奥で意地の悪さが分かるような声を漏らし、口を三日月に歪ませて嗤う。
 そしてはやての方へと向き直ったミドガルズは、腕を広げて哄笑する。まるで、はやてが昔読んだ小説に登場する悪魔――ファウストをはめたメフィストフェレスのように。
「宿命から逃げられないけどな★」
「はっ……?」
 そう言って彼は意味が分からず首を傾げる彼女の手首を掴んで引き寄せる。
 歯を剥き出しにしたその笑みはどこか餌を前にした獰猛な鮫か何かを彷彿させた。今もピエロのように戯けているが、その中に己の道を阻む者を破滅させる事を厭わないという狂気が混じっていた。
 これはそう受け取ったはやてが臆病なだけなのだろうか。彼が立ち向かおうとしている相手は丘の向こうにいる戦争そのものだと分かっているはずだ。
 なのに、はやてはなんだか自分自身が被食者になっている気がしてならなかった。




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Author:雪奈
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終焉の引き金を引くのは貴方。
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